魂の法則:愛 vs 我欲(攻撃欲)

スピリチュアル

最近、外来診察とエネルギー治療をしていてよく感じることがあります。

この人は、なんでも人のせいにしてイライラしているなあ。このままでは、病気は治らないなあ。。。と。

すると、ちょうどタイミングよく、以下の節になったのです。
病気も現世で起こっていることも同じです。生まれる前からご自身で決めて生まれて来たのですから。。。

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攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感)

攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、 自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての「エゴ的 感情」が含まれる。

攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻撃欲とは、劣悪化した生存本能である。

攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、 各レベル毎で異なる。

虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失 敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、 攻撃的になる。

自尊心の強い者や尊大な者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、も っと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたい事をしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感じた時などに、攻撃性が起動する。憤怒すると虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロ ールを失うと突然爆発するからだ。

虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイとに例えられる。ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的なので、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い者の攻撃性なのだ。

だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、 乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。

尊大な者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその度合いが違うだけである。尊大な者は滅多に感情を損うことがないので、 攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。

攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が見られ、それぞれに独自の特徴がある。

憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これ は、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む人を「嫌悪する者」と呼ぶとするが、この人はいつも、自分の憎しみは 正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、しまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。

憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、全てのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、 孤独を感じないように似た者を探そうとする。

「嫌悪する者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしま う。とどのつまり、それが彼らが望んだことだったのだ。

怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り) か小さい(腹立ち)かの違いである。

憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、 他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れ を変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になり易く、 不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快感の原因は外のもので内にはない、と自己を納得させるために外部のせ いにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。 恨みはこうして生まれる。

罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。

自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、 その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。 無力感は、消化器系の調子を狂わす。 抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。

攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

*罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか。

感情と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。 思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規範や規制、利己的な考えなども含まれる。

人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じるこ とがある。それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。たとえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によっ て霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。この場合は、自分の間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情を検証する。とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが 原因で、人は善悪を混同し、人生を混乱させる感情は悪いものに違いな い、との結論に行き着くのだ。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発達を阻むので、大変否定的なものだ。

*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。 だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。

これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生ま れる。

たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合 (年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、 NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)

思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。

感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれ ば、罪悪感は消えるだろう。

気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合 には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識するこ と。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうする ことを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるも のの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、 それに従って行動する固い意志が必要となる。

苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのためだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。 心で感じることが分からない人たちによって責められたなら、過去に自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

*恨みとは何ですか。

恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた責任者だと判断した特定の人に向けられる。

攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もあ る。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、 復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

*恨みはどこで生まれるのですか。

気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰な )に負けてしまった後悔などから生まれる。

恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人たちや、やりたかった事に反対した人たち、自分の困難な状況に責任があると思う人たちに、誤って向けられる。

*どうやってそれに打ち克つのですか。

外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。

運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めるのだ。

*前にした質問をもう一度くりかえすことになりますが、憎悪・憤り・ 怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。で すから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、 それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだと気づくのだ。

自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。

攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、 どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見れば明らかだ。

最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たちだ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。

ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなるのだ。

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとするのだ。

*何を理解しないといけないのですか。

自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。 自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。 また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るがままに自分を表現するように努めるのだ。 誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解すべきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。

我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自身で選んだものなのだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の欲求や意見を尊重・理解しなかったために、我々自身が招いてしまったものなのだ。

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感 から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。

それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈し ない信頼できる人でなければならない。

不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、 解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねばならず、怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。

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