エネルギー治療と魂の法則:はじめに

エネルギー治療

ブログ記事の更新が少しの間止まってました。
理由はあります。
いろいろな書籍を読んだり、ネットの活用方法を勉強したりしていたからです。
エネルギー治療と呼ばれる代替医療のカテゴリーにも様々な手技、方法、理念がありますが大切なことは、”病める人を癒す”ということに尽きます。
私は、これまでに習得した方法を忠実に実施しながら、さらに発展できるところはないか考えながら臨床の場面で使っています。

これまでのブログでは、著効例、有効例を中心に記載してきましたが、もちろん現時点で効果の見られていない症例も当然見られます。そのことについてもご紹介していくつもりですが、それと関係があると思われることがらについて少し述べてみたいと思います。

それは、人間の体・心・霊(魂)と生きている意味、そして死についての理解や捉え方によってその人の健康状態や病気の進行や回復の仕方が変わってくるのだということです。
私が述べ1000人余の患者さんにエネルギー治療を実施してきて思うことは、痛みをとるときには、上記のことを詳しく説明したり理解していただいたりする必要性がないと思いますが痛みのみならず病気の本質から変化させて病気を治していこうとするときには、必ずと言っていいほど必要になってくると思うようになりました。

そこで、今日は手始めに霊(魂)についてのお話をしてみたいと思います。これから、しばらくはこの話題が続くと思います。もちろん、症例のご報告も挟んで行く予定です。
この話をするにあたって、私も色々と参考になった書籍があるのですが、その中でもまずあなたにご紹介していきたいのが、この本です。とてもわかりやすかったのと、印税を放棄してるため、内容に修正を加えず営利目的にしない条件で複製(引用)が許可されているからです。

私のブログを読んでいただいているあなたにも是非、知っていただきたい内容ですので、引用しながら、私の感想なども書いていければと思います。

Vicent Guillem(ヴィセント・ギリェム)著 小坂真理訳 「魂の法則」

著者は、スペインのバレンシア大学で生化学博士号を取得し、現在はバレンシア大学病院の血液・腫瘍科で、がん遺伝子の特定に関する研究者として働いています。週末には、妻のフアニーと共に、無償でレイキ治療を施したりしています。
彼が書いた内容は、彼が幽体離脱した時のイザヤとの会話です。

それでは、どうぞお楽しみください。

はじめに

本書は、全世界の人びとに贈る愛のメッセージだ。

メッセージがどのようにしてもたらされたのか、また誰から伝えられ たのかということは、重要ではない。問われるのはその内容だろう。

これをどう扱うかは、各人の自由だ。無視しても、批判しても、検証 しても、あるいは君自身の人生に適用してもらっても構わない。僕自身 は、色々な経緯の後に、人生に応用するということを選んだ。

したがって、対話相手であり本書の主人公であるイザヤが架空の人物 なのか実在するのか、彼との会話が本物なのか、それがどのような状況 下で起きたのか、などを判断するのは君に委ねたいと思う。いずれにせ よ、これが君の心に届くように、真心をこめて書いたことに偽りはない。

僕の役に立ったように、君にとっても有意義なものとなってくれるこ とを願う。

君が自分自身を知り、感情を目覚めさせてエゴを解き放つと共に、人 生の目的を知り、自分に起きたことや今後起こる出来事を理解するため に役立てて欲しい。

希望を持ち続け、他の人びとへの理解を深め、いつかは皆を愛せるよ うに。また、自分が生きる世界を理解し、最も悲惨な状況からも最大の 恩恵を引き出し、愛において成長できるように。

つまり、君が本来の自分になれて、自由で、自覚しながら真実の愛・ 無条件の愛を体験でき、そしてそれによって、さらに幸せになってくれ ることを願う。

全ての愛をこめて。

序文

僕は、長い間いつも多くの疑問を抱えてきた。

それらは、存在の根源に関するものだった。いつも、自分の人生の目 的や、皆の存在理由を知りたがっていた。

「僕は何者か」「なぜ存在しているのか」「他者はなぜ存在するの か」「僕らはここで何をしているのか」「何か特別なことをするために やって来たのか」「人はなぜ生まれ、死ぬのだろうか」「僕らはどこか らやって来て、どこに向かうのか」「死後にも、何かがあるのだろう か」

そして、それでおしまいではなかった。時には、世界中で目にするお びただしい不正に対する答えを求めた。

「人生は、なぜこれほど不公平なのか」「誰にも危害を加えたことの ない小さな子どもが、生まれた時から誰からも愛されずに飢餓・戦争・ 貧困・病気・搾取・虐待で残酷なまでに苦しむその一方で、健康に生ま れつき、幸せな環境で愛される子どもがいるのはどうしてか」「なぜ病 気になる人とならない人がいるのか」「長生きする人がいる一方で、生 まれた途端に死んでしまう人がいるのはなぜか」「苦悩と悪意は何のた めなのか」「善人と悪人、幸福な人と不幸な人がいるのはなぜか」「僕 はどうしてこの家族の下に生まれ、他の家ではなかったのか」「どうし て他の人ではなく、この僕に、こんな災難が降りかかるのか」「他の人 に起こる不幸が、自分に起こらないのはなぜか」「これらの違いは一体 何によるのだろうか」

また、ある時は感情面でのものだった。

「なぜ僕は幸せでないのか」「なぜ幸せになりたいのか」「どうした ら幸せになれるのか」「僕を幸せにしてくれる愛の対象を見つけられる だろうか」「愛とは何で、感情とは何だろう」「この気持ちは何なの か」「愛す価値があるのか」「愛す方が苦しむのか、それとも愛さない 方だろうか」

おそらく君も、人生のある時点で、同じような質問をしたことがある だろうし、今でも時々そのように考えることがあるのではないだろうか。

でも僕たちは、日常生活の一日一日に追われているので、意識してこ のような問題を提起する機会も、答えを見つけようと努力する時間も余 りない。僕たちには、色んな義務や気を逸らされる雑事が多過ぎるのだ。 そして、答えは簡単には見つからないし、探求すると自分が不安になる ので、疑問は心の片隅に押し込めておくのだ。そうすれば、苦しみが軽 減されるとでも思うのかもしれない。

これらの疑問の一つ一つに答えはあるのだろうか? ありきたりな答え を求めているのではなく、本当のことが知りたいんだ。真実は存在する のか? 何が真実なのだろう。どこに真理を求めるべきか。そしてそれが 本物だと、どうして分かるのだろうか。

僕は、常に懐疑的で疑い深い人間だったが、探求心も旺盛だった。い つも自分自身で物事を確かめるのが好きだった。だから、小さい頃から 教えられた宗教・哲学・科学の中に答えを見出そうと、ずっと長い間探 し求めてきたのだと自信を持って言える。

そしてどの分野にも、世の中の理解が深まる独自の宇宙観があったが、 自分の現実をありのままに説明するには、宗教にも科学にも限界がある ように思えた。いつも現実からかけ離れた、中途半端で矛盾し合う答え しか得られずに、僕の疑問が解消することはなかった。深く追求しよう とどんなに努力を重ねても、最後には破ることのできない壁 ―質問を続 ける気が損なわれてしまう最終回答― に突き当たった。

宗教から得られた最終回答は、「神の御心です。神のみが知るのです。 私たちには計り知れません」というものだった。

つまり、人の生まれ出る環境にどうして優劣があるのかや、病気にな る人とならない人がいることや、寿命の長さの違いなどは、僕たちには 理解できないということだ。死後に起きることや、他でもなくこの家族 の下に生まれた訳や、なぜこんな世界なのかとか、神がこの世の不正を 許容する理由などは、僕たちには、到底理解できないということなのだ。

そして科学から得られた最終回答は、大体次のものだった。「全ての 事象は物理的な説明が可能だが、哲学的な観点から言えば、ほとんどは 『偶然の産物』か『それが存在するかどうかは、科学的には証明できな い』ということになる」

つまり、君が存在するに足る理由はないし、生きるに値する特別な目 的もないということだ。もし概ね恵まれた環境の下に生まれたのだとし たら、それは偶然だ。生まれつき病気だったり健康なのも、どの家族に 生まれるかや寿命の長短なども、偶然だ。科学的には、生まれる以前の 生や死後の生の存在などは証明できない。科学的には、神が存在するこ とも証明できない、などなど。

大抵の人は、このように教わったことを真に受けているので、誰かと 話をしても、宗教を信じている人であれば、概ね、「神の御心です。神 のみが知るのです。私たちには計り知れません」と答えるだろう。

一方、科学を信奉する科学者の立場を取る人たちは、宗教を信じるグ ループよりも知識があると信じ込んでいて、「それは偶然の賜物だ」ま たは「科学的には証明できない」と答えるだろう。

僕にこんな風に答える第三のグループの人たちもいた。「さあ、知ら ないな。君の質問に対する答えが何かは分からない。でも、そういうこ とを自問するのにも、答えるのにも興味がないんだ」

そして、僕が彼らに「悪いけれど、その答えは役に立たないよ。僕の 質問に答えてくれていないのだから」と言うと、最初のグループの人な ら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要な んかないよ」と言う。

二番目のグループなら「君には必要な知識が欠けてるからね。科学は 答えをくれるさ。それが僕の言うところの『科学では証明できないって ことが、科学的に証明されている』ことなんだよ」と返答する。

第三グループは、「払わなければならないローンがあるし、食わせな いとならない家族がいるし、分割払いの車がある。週末には旅行に行く ことになっているし、もう充分忙しいんだから、こんなことでこれ以上 僕を煩わせないでくれよ」と言う。

最初のグループには、僕自身の疑問に答えることを放棄することなど できないと答えよう。放棄できるとしたら、自分の意志に背くことにな るし、僕にはそうする気がないからだ。

第二グループには、知識の欠如によるものではないと答えたい。その ような知識は学んだ。僕は化学博士だし、物事の探求に限界を設ける必

要がある、という結論に達したことは一度もない。計測する道具がない からといって、踏み込めない分野があるとは思わない。僕には僕自身が いるし、自分が自分の計器となればいい。僕は、自分が知覚したことは、 精密な計器で測定できたも同様に見なしているで、他者もそれぞれが感 知器であることを認めよう。だから、僕自身の計器で感知できないこと があったら、他の人たちに、その人たちの感知器では何を捉えたのかを 聞いて、役に立つのか見てみようと思う。

第三のグループには何も言わないでおこう。彼らは僕の話を聞きに来 ているのではないから。

こう言ってはいても、答えの探求において、役に立ったり注目するよ うな事柄に出会えなかった訳ではない。だけど、より多くのヒントに出 会えたのは、正規の道筋から外れたところでだった。

中でも最も興味を惹かれたのは、他の人たちの体験だった。それは、 自分でも試せるものだった。誰かが以前に経験したのだとしたら、僕に も体験できるかもしれないからだ。

特に二つのことに興味を持った。アストラル体(幽体)での旅とナザ レのイエスの生涯だ。この名前には聞き覚えがあるだろう? 僕は、教会 が彼についてどう言っているかを問題にしているんじゃない。公式なも の非公式なもの、宗教上のものも世俗的なものも様々な起源の、随分沢 山の資料を研究してみたが、ほとんどのものが二つの点で共通していた。 それは、この人物が実際に存在したということと、話したり行ったりし たことが人類史上に多大な影響を与えた、ということだ。

一体何が僕の注意を引いたのだろう。それは「汝の敵を愛せよ、誰で も愛せよ」という彼のメッセージだった。全ての宗教の神々が征服や戦 争を正当化するために利用され、人びとや民族がありとあらゆる口実で 絶えず戦い合っているような世の中(現状と同じく)で、それと全く反 対のメッセージを携えた人物が現れたことが、目立たない筈はないだろ う。そしてそれだけでなく、自分を手本として実践してみせたのだ。つ まり、過大な約束しておきながら、後では言ったことと反対のことをす るお馴染みの政治家のように、口先だけではなかったのだ。

けれど、イエスについては、死後に彼以外の人 ―中には彼と出会いもしなかった人たち― によって書かれたものが余りにも多すぎて、一体ど うしたら本当に起きたことが分かるのだろう? 彼が実際に言ったこと、 または言わなかったことは何だったのか? 僕にはそれが気になった。

イエスのテーマは、後ほど本書で取り扱うので一旦置いて、今度はア ストラル旅行(幽体離脱)について話したいと思う。

僕は、様々な著者の色々な本の中でその事象を知った。彼らは、身体 をリラックスさせるあるテクニックによって、自分の身体から離れるこ とが可能だとしていた。これが幽体(アストラル体)離脱である。信じ られないだろう?

自分自身の身体から離れられるということに、興味を持っただけでは なかった。この人たちは、その状態で、物体の中を通過したり、考えた だけで一瞬にして好きな場所に移動するというような、驚くべきことを やれると断言していたのだ。しかも、それだけではなかった。その状態 では意識が拡大するため、人生の目的やこの世でするべきことがはっき りと理解できるというのだ。

僕は、この事に関心を持った。もしかしたら、疑問に対する答えを得 られるかもしれない。失うものは何もない。「最悪でも、何も起こらな いだけだ」、と考えた。そして、実際に取り組んでみることにした。

毎晩寝る前には、リラックス体操を行ってみた。一月ほどは何も起こ らなかった。つまり、身体から離れることには成功しなかった。だけど、 リラックスすることで何も感じられない訳ではなかった。これは、なか なか気に入った。通常感じられたのは足の裏の振動で、これは脚まで上 昇してきて目で見えるほどだった。

ある日、この振動は脚よりも上に、胴体へ首へ、そして頭へと登って いって、とうとう身体の感覚がなくなった。激しいながらも心地よい振 動だけとなり、そして、それは起こった。突然スポッ! と、超スピード でトンネルの中に発射されるような感覚を味わった。それは本当に信じ 難い感覚で、言葉でどう表現していいのか分からない。目が回るような 速度で一瞬のうちに何億キロメートルも旅したようだったが、不快な目 眩も酔いも感じられなかった。そしてスピードが少しずつ減速していっ て、自分のいる場所を見てみることができた。

それは、おとぎ話から抜き出したような信じられないところだった。 表現する言葉もないほど美しい自然に囲まれた湖があった。全てが、光 も色も香りも音も本当に何もかもが、うっとりするようだった。そして、 僕自身がその場に溶け込んだかのように、全てを活き活きと感じた。言 い表せないほどの平和が息づいていた。僕は体験していること全てに余りにも驚いていたので、何も考えられないでいた。と、その時、一人で いるのではないことに気づいた。

水辺近くの石の上に座っている人がいた。自分でもどうやったのか分 からないが、近づきたいと思っただけで、直ぐにその人がいる所に行き つくことができた。どうやら、そこでは、したいと心の中で思ったり考 えたりするだけで実現できるようだった。彼は僕のことを待っていたよ うで、僕を見ても全く驚かなかった。年をとっていて、髪の毛も長いひ げも完全に白髪ではあったけれど、老人につきものの疲労や苦悩の跡は 見られなかった。白い祭服のようなものを着て、紐で腰を締めていた。 でも、それが一番目を引く点ではなかった。

僕が惹きつけられたのは、彼のまなざしだった。あのような素晴らし い瞳は、この世では絶対に見ることができないだろう。優しく、人を見 通すように透き通り、例えようがないほど落ち着いた平和な気分にして くれた。変に聞こえるかもしれないけれど、その見知らぬ老人がまなざ しで僕に愛を送ってくれているような気がして、自分が置かれたその居 心地のいい状況を、大して奇妙だとも思わなかった。

ここからは、イザヤという名を語ったその素晴らしい老人との対話を、 この最初の出会いとその後の巡り会いを思い出して、再現してみたいと 思う。彼との対話は、僕の人生をより良いものへ、いや、はるかにいい ものへと根本から変えるほどのものだったので、それをできる限り忠実 に再現して、君たちと共有したいと思う。僕の解釈や印象に捉われるこ となく、彼の言葉を直接聞いて、君たち自身が自分なりの結論を引き出 してくれればと思う。

さあ、寛いで座ってもらおう。幕が上がるから。

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コメント

  1. 川嶋あすか より:

    こんばんは お疲れ様です、今日は楽しかったです、ありがとうございました。ブログ楽しみに読ませていただきます。

  2. spiritdoc より:

    こちらこそ、みんなでいろいろな体験をさせていただき感謝しております。
    もし、Facebookでも繫がれるようでしたら、どうぞ友達申請をお願いいたします。直ちに承認申し上げます。
    https://www.facebook.com/toshitakas

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