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魂の法則:イエスの地上での使命ーその1ー
魂の法則:イエスの地上での使命ーその2ー
*カトリック教会は、なぜそれほどユダヤ教に似てしまったのでしょう。
最初はそうではなかった。なぜなら、キリスト教徒は、初めはユダヤ人、後にはローマ人から絶えず迫害され、常に危険に身がさらされていたので、イエスの愛の教えの信奉者となるには、大変な覚悟が必要だったからだ。
しかし権力者たちは、私益に有害な思想の支持者を抹殺しようとしたにも関わらず、信徒が増え続けるのを見て、「敵をやっつけられないのなら、取り込んでしまえ」という戦略に切り替えたのだ。
全ローマ帝国をキリスト教に改宗すると布告したコンスタンティヌス 皇帝以後は、多くの者が信仰によってではなく、キリスト教徒にさせられた。そして、大半が強いられたものであったために、全てを台なしにした。隣人愛は、そこでおしまいになったのだ。
それ以前の宗教の高位神官と信者たちは鞍替えをし、何の霊的改変もないままキリスト教に移り、重要な職に就き始めるようになった。宗教 の元最高神官が、キリスト教の一信者で我慢するなどとは、君たちでも 思わないだろう。彼らは、権力の持ち分を維持したかったのだ。そこで、 神官の帽子を、教会の司教の帽子に変えたのだ。いや、実は帽子でさえ も変えはしなかった。法王と司教のかぶるミトラさえ、別の宗教に由来 しているのだ。ミトラと呼ばれるのは、ローマ人が崇めていた神々の一 つ、ミトラへの古代信仰の神官たちがかぶっていた物だからだ。
キリスト教にはそれ以前の宗教儀式が沢山取り入れられ、元来の隣人愛のメッセージは、それに反する概念で侵されてしまった。カトリック 教会とは、このようにして生まれたのだ。神と金とに兼ね仕えることは できない、とイエスは言っただろうが、カトリック教会は、二千余年も前のユダヤ教会のように、ほぼ最初からお金の方に加勢したのだ。
*でしたら、法王の絶対的権威と地上における神の代表という…
もちろん全て嘘だ。法王も普通の人間と同じように間違えることがあ る。法王と霊界との繋がりは、他の人のものと比べて何も特別なものではない。 高次の霊性との繋がりは、無条件の愛を努力することによって段々と強くなるもので、どれほど立派な肩書きを授けられようと、それで繋がりが深まる訳ではない。
*では、どこからそんな考えになったのですか。
先に言った通り、教会の首長自身がそう言っている。通常それは、権力や富への野望にそそのかされた行為を、誰にも見破られないように正当化するための手段なのだ。
救済には彼らが不可欠だ、と人びとに確信させることができれば、教区民を犠牲にして、誰にも咎められずに暮らせる筈だからだ。「神の任命した者たち」に従わなければ「永遠の罰」だぞ、と言っていつでも脅すことができた。それは「神の代理人」の命令に従わないのであれば、 という意味で、つまり、彼ら自身のことを指していたのだ。
*悪業を清算するには告白が欠かせず、司祭から免罪されればそれを解消できる信念に関しては、どうですか。
霊的に改善する第一歩が、罪悪の自覚であるのは明らかだが、後悔するだけでは不十分だ。霊界では、「愛の法則」に反する行為は、犯した 罪業を償うことによってのみ、解消可能だからだ。
そしてそれは、我々自身でするしかない。乗り切るための支援を受けるのは構わないが、どれほど高次の者であろうと、誰にもこの仕事を代 わってもらうことができない。
司祭に免罪権を与えているのは、救済されるには教会の代理人が不可欠なので、経済的に支えてあげなければならない、と人に思わせる戦略の一部なのだ。
初めに言った通り、霊的な進化は、個人の努力によってのみ達成できるものであり、高次の存在との「コネ」によるものではないのだ。
*それでは、十字架上で死ぬことで、イエスが人類の罪をあがなったという信念と、彼が後に復活したことについてはどうですか。
これも正しくはない。イエスが霊性進化の道筋を教えにやって来て、 彼の隣人愛の手本に従った者が決定的な変化を遂げたため、宗教上では 「罪」とされた過ちを犯すことがなくその道を真っ直ぐに進んで行けた、というのは本当だ。だがそれで、前世での犯罪行為の償いに対処しなくて済むようになる訳ではない。イエスは誰の罪も払拭した訳ではなく、 各人にそれぞれの罪をどうやってあがなうかを教えたのだ。
大学入試の途中で、何人かの生徒の先生がやって来て、「私の生徒は 答案用紙を提出しなくてよろしい。全員合格だ。試験官を知っていて合格にしてもらえるから大丈夫だ」と言ったとしたら、とても不公平だろ う。頑張って勉強して自力で合格できる生徒を退けて、準備不足の生徒 が値しないのに受かってしまえば、それは、各生徒の努力が公平に評価されていないのだ。良い先生がすべきこととは、生徒がきちんと試験準備ができるように、尽力することであろう。
イエスが試みたことはまさにそれで、各転生での霊的な試験に合格できるように、我々にきちんと準備をさせたかったのだ。霊界には「コネ クション」は存在しないからだ。
我々には、犯した過ちを改める無数の機会が与えられる。だが、それをすべきなのは我々自身で、イエスや聖母やその他の聖人にすがるべきではないのだ。
*では、このことをキリスト教徒に納得させられますか。これは、カトリックの教えの主要な教義の一つですよ。
次の新約聖書のマルコの福音書(10, 35-40)でも同じことを言っているよ。
さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとに来て言った、 「先生、わたしたちの頼み事を、かなえて下さるようお願いします」 イエスは彼らに「何をして欲しいと、願うのか」と言われた。 彼らは 答えた、「先生が栄光の王座に就くとき、一人をあなたの右に、一人を左に座らせて下さい」 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」 彼らは「できますとも」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが 飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるであろう。しかし、わたし の右、左に座らせることは、わたしが決めることではなく、準備のできている者だけに許されるのである」
*でも、「あなたの罪は赦された」と言っていたのは、イエス自身では なかったですか。
イエスが言いたかったことは、過去に「愛の法則」に反する行為をしても、永遠に有罪になる訳ではなく、何をしたかを問わず誰でも改悛し、 いつでも好きな時に新しくやり始めるチャンスがあるということだ。
*でも、どうして病人を治した直後にそう言ったのですか。
イエスが病人の治療をする時は、肉体の毒素のみならず、肉体レベル での病気の原因となるアストラル体の毒素も綺麗にしていたからだ。
これらは、感情や思考に由来する精神的な毒や、当時は「罪」と呼ばれた、 今生や前世での「愛の法則」への違反行為による毒が蓄積したことが原 因だ。
イエスが手をかざして行った癒しを、日頃の手入れを怠って汚れてしまったじゅうたん(身体)を綺麗にする、掃除機だと考えてみてごらん。 徹底して掃除をしたとしても、人が「汚い」習慣を全く変えようとしな ければ、少し時間が経てば、じゅうたんはまた元のように汚くなってし まう。
実際、イエスに治してもらった後で、内面を改革するようにとの助言も聞かず、霊的な悪癖を続けたために、再びメンタル体で精神的な毒素 が生じて、それがアストラル体と肉体に転移して、またもや病気になってしまった人もいる。
*それでは、病人を治癒して感謝された時に、なぜ「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのでしょうか。
それはイエスが、レイキやプラーナ、その他どう呼ぼうと構わないが、 癒しのエネルギーが効果を発揮するには、送り手が上手なだけではなく、 良い受け手も必要なこと、つまり、チャクラを開いてエネルギーを受け る心づもりが要ることを知っていたからだ。
癒しが起こるためには、エネルギーを受ける人が送り手を信頼(信仰)していなければならない。信頼していないと、チャクラは閉じたま まで、送り手にどんなに能力があろうと、エネルギーは流入しないし、 治療効果も出ないのだ。
*でも、病人が意識不明や重病で、治そうと努力しているのが分からない場合などには、本人に対してではなく、その家族にそう言っていたようですが、これはどういうことでしょうか。
イエスが、その愛と慈悲の力によって高度な治癒力を持つ高振動のエ ネルギーを伝達できたように、それを信じ必要な人を助けたいと願う者 は、元の波動を「反響させる者」となって、エネルギーを高める力があるからだ。その場合は、彼ら自身も、癒しのエネルギーを流すパイプと なるのだ。
それと同じように、否定的な思いや懐疑心があるために、治癒エネル ギーが周囲に上手く伝わることの邪魔をしてしまう人たちもいる。イエ スや彼の教えを信じなかった人の事例は沢山ある。そのような場合には、 イエスがいつものように病人に手をかざしても、癒しはほとんど見られ なかった。このような状況は、福音書自体にも記載されている。
そしてイエスは郷里に行き、会堂で人びとを教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、こんな知恵と不思議な力を、どこで習ってきたのか」 他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではない か。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではない か。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」 こうして人びとは、イエスの教えを認めようとしなかった。 しかし、 イエスは言われた、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の郷里と 家族の間では敬われない」 そしてイエスは、彼らの不信仰のゆえに、 そこでは多くの奇跡をなさらなかった。(マタイ 13, 54-58)
*ついでですので、復活についても話して下さい。
いいだろう。これについては非常に混乱をきたしているので、なるべく分かり易く説明しようと思う。イエスの復活について言われている多くは、完全に間違っている。
復活という言葉を、肉体の死後にも魂が存続することだと理解するの なら、それは正しい。だが、死後も生き続けるという事態は、何も特別なことではない。魂が生き残ったのは、何もイエスが最初ではないし、 もう充分話した筈だが、これは宇宙の法則であるので、いつもずっと起 きていたことだった。
しかし、魂が存続するには必ず身体が必要があり、しかも生存中と同じ身体でなければならない、というような信仰は全て、正しくはないの だ。
*キリスト教会の分派の中には、生命は肉体がなければ成り立たないと 信じ、肉体の死後の魂の生を認めないものもありますが、それについてはどう思われますか。
肉体の死後、魂が、置き残した身体に戻るまでずっと眠った状態にあり続ける、ということは正しくない。これが、蘇りに関する信仰の誤りの一つだ。肉体の死が生じた時点から体が腐敗し始め、しまいには消滅するということは、明白ではないのだろうか? 物質界に戻る日がやって来た時に、何世紀も前になくなった肉体に戻れるのだと、どうしてそう信じることができるのだろうか?
亡くなった魂は転生によって肉体生に戻るのだ、と説明する方が、簡単ではなかろうか? つまり、昨日まで地上に生きた魂は、明日には新しく生まれ出る子どもとなって帰って来る、ということだ。
したがって、自然な物質の分解過程で失われた肉体を魔法で再構成し て、死者が肉体生に戻る、というのは誤った信仰なのだ。
亡くなった者は絶えず物質界に戻っているのだが、自然の法則を侵すことなく、新しい子どもとして誕生することで、そうしているのだ。
魂や霊が生き続けるために肉体が必要だ、というのも正しくない。魂 は、再び物質界に転生するまで、ずっと眠った状態でいるのではなく、 すでに話した通りに、物質から解放されて、霊界で各自の暮らしと進化の工程を続けるのだ。
イエスが死後に復活した、という場合には、彼の肉体が再び生を得たのではなく、彼の魂が生き続けたことを意味しているのだ。
*でも信者であれば、「福音書には“イエスはラサロを蘇らせ”ラサロ はその体でしばらく生き永らえたと書いてある」、と言うことでしょう。 これは、「肉体の蘇生」を証明するものではありませんか。
イエスはラサロを蘇らせたのではなく、ラサロが実際にはまだ死んで いなかったのだ。本当のところは、イエスは彼の意識を蘇らせたのであ り、これは君たちにとっては何の不思議でもない。
今日では心肺蘇生の技術で、臨床的に死んだと見なされる人を、医師 が「蘇らせる」ことが可能だ。遺体安置所に何時間も放置された後で、 死んだと思われていた人が突然目を覚まして生き返った、という特異な ケースを耳にしたことがないのかい?
それというのも、心肺停止が起こっても、一瞬で肉体から離れる訳ではないのだ。そうでなければ、心臓蘇生など不可能だろう。
魂の離脱のプロセスは、物質への執着心や肉体自体の生命力によって、 ある程度の時間を要するものだが、銀の臍の緒が完全に切れるまでには、 最低二・三日はかかるものだ。イエスがエネルギーの力でラサロを蘇生させたとしたら、それは単に、ラサロが肉体との分離プロセスをまだ完了していなかったからで、現在の医師と同じように、彼を生き返らすことができたのである。
*でも、イエスの死後三日目に親族たちが墓に行くと、彼の体がなくなっていたではありませんか。
君たちの場合はそうはならないが、イエスのケースは特別で、魂が肉体との最後の絆を断ち切ると、非常に振動の強いアストラル体が分離したために、肉体が瞬時のうちに分解し、それで遺体が墓の中で見つから なかったのだ。この解体の工程が、遺体を覆っていた布に、体跡を残すこととなった。だから、遺体が墓の中になかったからといって、イエス が生存中と同じ肉体で生き続けたということにはならない。
*でしたら、聖骸布とそこに見出された姿形は本物なのですか。
そういうことだ。
*ではなぜ、炭素14法年代測定の結果が、その時代と一致しないのですか。
その件に関して言えるのは、年代測定の手順において不確かなことを確実視してしまっていて、それで年代が一致しない、ということだけだ。 でもこれでは、話が脱線してしまう。聖骸布が本当に、死後にイエスの肉体を覆った布であったか否かというのは、彼の肉体が皆のように時間をかけてゆっくり分解または腐敗したかどうかということのように、私 たちが話していることとは関係がないのだ。これらは、イエスを受胎した時に聖母マリアが処女であったかどうかということのように、霊的な教えとは無関係だ。
君たちは奇異に思える出来事は良く覚えているが、それらは霊的な観点からは実のないもので、イエスが布教した真に重要なことに意識を向けるのを忘れてしまったのだ。
*では、イエスはどのようにして使徒の前に現れたのですか。死後、本当に彼らの前に出現したのだとしたらですが。
死後、一緒に暮らした使徒や他の人たちの前に現れた時には、生存中に使用した肉体を伴ったのではなく、アストラル体で顕れたのだ。多くの死者が、亡くなった場所やお棺の中に動かない肉体を置いたまま、愛する人の枕元にお別れをしに顕れるのと同じだ。
というのも、アストラル体は特別な状況下では「凝縮する」のであり、 肉体とほとんど同じ形に固まることも可能なのだ。しかも、イエスのような能力を持つ魂を相手にした場合にはなお更なのだが、これは、君た ちが「超常現象」と呼び、多くの研究家に知られる現象だ。
*「最後の時には死者が復活する」という類の予言は、何か意味があるのですか。
すでに亡くなった人の魂は、転生によって絶えず物質界に戻って来ているのだ。つまり、復活するために「最後の時」と呼ばれるような時代を待ちはしないのだ。人類が物的な惑星に存在する以上、魂の輪廻転生というプロセスは絶えず作動し続けるだろう。
ただ、本当に言えることは、現在は人口爆発により、歴史上の他の時 代よりも大量の魂が同時に生まれ変わっているということだ。こうして サイクルの終了時に合わせて、こうした魂も進化の最も重要な時期に転生する機会を得るのだ。これが「最後の時には死者が復活する」という 一文を解釈し得る唯一のものだ。
*それでは、原罪に対する信仰はどうですか。つまり、人類の先祖だとされる者(アダムとエバ)が罪を犯したので、子孫がその行為の結果を償わねばならないということですが。
それについては、例を示して答えるとしよう。
ある男が銀行を襲い、逃亡時に車にはねられ死亡したとしよう。彼を裁くことが不可能なので、裁判官が強盗犯の息子に父親の罪を償わせる 決断をし、親の代わりに監獄に入れようとしたとする。君たちは、このような決断を下した裁判官を公平だと見なすのだろうか?
*もちろん公平だとは思いませんよ。それに、文明化した国ならどこの裁判所だって、そんな決断はしないと思いますよ。
人間の正義観から見て、父親の罪を息子に着せるのが異常なのなら、 どうして神の裁きが人間のもの以下になり得るのだろうか?
霊界では、各自が自分の行為に責任を取らねばならず、他者のしたことには問われない。したがって、原罪や先祖から「継承した」罪などの信念は不公正なもので、何の根拠も存在しない。
*それでは、先祖から受け継いだ罪という信念は、何に基づいているのですか。
確かなことは、各人が自身の行為に責任を取らねばならないことで、 それは過去生のものであるかもしれないので、先祖の中に過去に転生していた自分自身がいた可能性はある。
これが、そのような信念を正しく解釈し得る唯一のもので、転生の存在を認めることで、初めて理解することができる。
*性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも清純で高潔だと信じるのは誤りだ、とも言われましたよね。
その通りだ。司祭であろうと僧侶や修道士であろうと、宗教家たちに貞潔を誓わせたそのような概念を、どこから引き出して来たのか知りた いものだ。
*イエスが示した手本によるのだと思いますが。
君たちはイエスに性関係がなかったと断言できるほど、イエスの私生活を知らないではないか! 性関係を自制すれば神に近づいたりより純潔になれるなどと、イエスが公言したことは一度もない。
たとえ本当であっても、全人類が生涯にわたって性関係を控える決意をしたとしたら、百二十年以内にこの地球から人間の命は絶えてしまう であろう!
「生めよふやせよ」ということと矛盾してしまう、と思わん かね?
もし君たちが、性関係以外の増殖法を知っているとしたら、お教え願いたいものだ。過去の時代には、試験管で受精させるなど不可能だったのだよ!
*あなたのお話から、性関係はいつも繁殖のためでなければならないと理解するべきでしょうか。
もちろん違う。もうそれについては充分話しただろうに。進歩した魂にとっては、性関係は親密な愛の表現方法だ。
それと全く異なるのは、性欲を満たすために、あらゆる手段を用いて自由意志が侵害される場合だ。特に女性や子どもといった最も弱い者が 性商売(売春や小児性犯罪のことだ)に従事させられたり、君たちの世 界では良くあることだが、実際には愛してもいないのに愛していると言 ったりして、セックスのために、あらゆる方法で人を操り嘘をつく場合 だ。
イエスはこのようなことを全て、告発したのだ。その時代には女性は、 性も含めた全ての面において、奴隷に毛が生えた程度に見なされ、実質的には何の権利も持っていなかったのだよ。男どもは、誰にも文句を言 われずに好き放題で、女性は、男性の権力の乱用を、宗教の加護にすがって耐えねばならなかった。たとえば、離縁され、他に生き延びる手段がないために、売春を強いられた。
イエスは女性の権利を守るために、大いに闘った。女性を性奴隷と見なすことを止めさせ、彼女たちを咎める者を叱責し、その惨めな状況は男性のせいなのだと分からせようとした。しかし、教会がそれら全てを、 性を卑しむ抗弁にすり変えてしまったのだ。
*教会は、イエスの母親の聖母マリアを例に挙げて、純潔と貞潔を掲げてきたのではないですか。
イエスの受胎については一旦置いておくが、マリアは大半の女性がそ うであるように、伴侶であるヨセフと性関係を持ち始めるまでが処女で あった。ヨセフとは複数の息子と娘を得たのだが、彼らはイエスの兄弟 に当たる。
特筆すべきなのは、これがキリスト教徒の福音書に記載されており、 著者たちがイエスに兄弟がいたことを多くの者のように問題視せず、現 在の教会のようにそれを隠そうともしなかった点だ。マリアに他にも子どもがいて、彼らに名と姓があったことは、福音書の様々な節(マルコ 6, 3; マタイ 13,55; マタイ 12, 46-47; ルカ 8,19-20)に反映されている。 幾つか例を示してみよう。
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イ エスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言っ た、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思 って、外に立っておられます」
「マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセフ、シモンとユダの兄弟ではない か。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」
他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、 なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」
福音書の著者が、イエスに兄弟がいたことを何も問題とせず、恥ずかしがらずにそれを記載しているのに、なぜその後継者たちが問題視する のだろうか?
*今生での行いで未来が永久的に決定され、悪者や異教徒には永遠の処罰と地獄が待ち受け、キリスト教徒と信者のみが救われて永遠の栄光を手にする、という信心についてはどのようなご意見ですか。
それに関しては、魂の「進化の法則」と霊界でどのように物事が作用するかについて説明した時に、時間をかけて広く話した筈だ。
だが、まだ充分明らかでないのなら、もう一度くりかえそう。実に全ての魂は不死であり、魂の目標は、霊性進化のより高次の段階に達する
ことだ。したがって、宗教的・政治的信心や人種やその他の資質を問わずどんな人間でも、進化の計画から締め出される者は一人もいない。すなわち、神やイエスや教会などを信じようが信じまいが、または人間的には大失敗であろうと、不死だという性質や、霊的に改善できる可能性を失うことなど絶対にない。よって、誰にとっても死は存在しないし、 永遠に罰せられることもない。
それに、皆の魂の過去を一人ひとりじっくり回顧したならば、過去生のどれかで、誰もが殺人者や人食い人種、またはその両方であったと分かるのだ。もし今、それを異常だと思うのであれば、それは霊的に成長できたからであり、自分の能力を試すためにくりかえし転生したことで、 犯した誤ちを修正する無数の機会を得たからである。もし、改悛の機会がなくただ一度の人生の行いで、将来が未来永劫にわたって決められるのなら、「地獄」はもう満杯で入れる者などいないだろうし、「天国」 はサハラ砂漠よりも閑散としていることだろう。
*それでは、司祭の前での最期の告解が罪を緩和すると考えられていることに関しては…
肉体を離脱した後の魂の行方は、生存中の行為でのみ決まるのだが、 進化し改善する機会はいつでもあるので、そう決意した瞬間から「救わ れる」チャンスがある。だが、それは一朝一夕にはなされず、魂の心底 からの変化を伴うものなので、反省し自覚して、否定的な態度を修正する時間が必要となる。
また、霊的な負債や「愛の法則」に反する行為を清算するためには、 自分の罪業を修復しなければならず、これには強い意志と時間とが必要とされる。
このことから、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後の魂の行方を変えることにはならないだろうと推察できるだろう。
*しつこくて申し訳ないですが、キリスト教徒と信者のみが救われるという信心に関しては、イエス自身が「わたしを信じる者には永遠の命が与えられる」と言って、救済されるのは信奉者だという信仰のきっかけを作ったのではないですか。イエスはそういう意味で言ったのではない。
彼は、各人に霊的な変革を起こさせる秘訣を教え、命は永遠であり、 それぞれが自らの運命の創作家であることを自覚させたのだ。現在の言葉に置き換えるのなら、「わたしの言うことと教えを信じる者は、命が永遠であることと、『救済』(進化)は本人次第で、その人自身が自らの運命の担い手であることを自覚できるだろう」となる。
*では、キリストの信徒だけが永遠の命を手にするという信心は、何に由来するのでしょう。
イエスが言ったことが誤って解釈されてしまったためと、教会がさらにそれに、「教会の外に救いはない」と付け加えて改変してしまったためだ。
この場合ではキリスト教徒のことだが、一般的に、特定の宗派の信者のみが救われるという信仰は、その宗派の首長自身の考えに過ぎず、信徒の忠誠を確保するために利用される謳い文句の一つに過ぎない。
もっと証拠が欲しいのかね?「教会の外に救いはない」というのはラテン語では “extra Ecclesiam nulla salus” と言うのだが、これは、イエス が地上に現れてから千余年も経った、1215-1216年に開催された第4回 ラテラン公会議で、聖キプリアヌスが最初に発言したことを、教義に取 り入れたものなのだ。
*でも、カトリックの信者の多くが、そう確信している筈ですよ。つま り、キリスト教徒だけが永遠の命を手にできるのであり、善い信者であり救済されるためには、教会の規則に従わなくてはならない、ということですが。
いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順であることに等しい、と君たちに信じ込ませたのだ。特に、教会の規則に従順になることだと思い込ませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。
しかし、慈悲深いのと従順なのとは全く異なることだ。規則に従順で、 社会的に表面上は情け深い人であっても、個人的には我欲に完全支配された真の「悪魔」であるかもしれないのだ。規則や儀式をひどく愛好し たのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白 く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。
反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わないがために、人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な人がいると、そうでない者との違いが歴然となるので、危険で蔑むべきだと見なされるのだ。
ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には従順ではなく、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。 多くの人もこれに追随した。
歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマの競技場でライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれる など、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。しかしそれでも、彼らは、自由で愛すことができたのだから、幸せ者だと見なされるべきだ。進化の劣った同胞から苦しめられたので、きっとそれに見合う償いを受けたであろう。
奴隷のような規則に従い、心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人生を送って自己を嫌悪し、その上宗教に洗脳されて、不毛な苦悩自体が善人にさせてくれるのだ、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと 悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉妬により、他者の罪悪感を弄んで、嫌な思いをさせようとする者もいる。 罪悪感を利用することは、意志放棄をさせるために教会が良く使った手口なので、彼らも充分心得ているのだ。*罪悪感を弄ぶ、とはどういう意味でしょう。
自分の不快感を他人のせいにする、ということだ。
*弄ばれる人を助けるためにはどうしたらいいでしょうか。
その人は最初に、その問題、つまり信条とする観念によって自分の意志と感情が実質的に失われてしまったこと、を自覚する必要がある。 これは、それ自体がもう凄い進歩だ。それというのも、普通はこのよ うな人は、自分が他者より上だと思っていて、自分の宗派で信用のない人の言うことなどを聞こうとしないからだ。それは、教会が、規則に従 わない者は「罪人」で信じてはならない悪い仲間だと、思い込ませたせいでもある。
次に、内面を見つめる努力をし始める必要がある。本当にしたいと思ってすることは何か、したいのに規則で禁じられてしないことは何か、 したくないのに規則に強いられてすることは何か、などを自覚することから始める。
その次のステップは、自由意志という自己の意志力を行使し始めることだ。つまり、定められた規則に逆らう必要があろうと、自分の気持ちに従って行動し始めるのだ。
*これまでの長い説明からは、全ての宗教は茶番であり、神の御心など全く反映されていない、と結論づけるべきでしょうか。
そこまで極端なのは良くない。
宗教の問題は、霊的に高次な教えを幾つか取り入れてはいても、全て を「神の御言葉」だと、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。
そこには思考の自由も、本当に心に響くことを選ぶ自由も、自分にとって嘘や的外れなことを除外する自由も、何を信じ何を信じないかを選択する自由もない。
宗教の指導者たちは、随分長い間、隣人愛などの高次の教えを呼び水 として、人を惹き付けてきた。魂の成長を阻む、その他の馬鹿げた付け足しの規則には、関心がない人がいたからだ。信徒になり、教会の権力者の叱責を怖れて、「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気のないまま、自称「神の代理人」に導かれてゆくと、少しずつ自分の意志を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになるのだ。
だが、それらの規則は、自己体験に充分な意味づけと満足のゆく答えを与えてくれるには時代遅れなので、信者はコルセットをきつく締めら れて、自由な自己表現を阻まれてしまう。意志を放棄をすると、神の御 言葉の代弁者として勝手に立候補した者の意のままになるので、狂信に 向かって進むのだ。
現存するほとんど全ての宗教・哲学・イデオロギーには、嘘に混じって真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、 こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を見つけていくことは、各人の仕事なのだ。
*困難な状況にいる時に、生身の人間を信頼して助言がもらえないのであれば、その方法にはリスクがありはしませんか。
霊的な真相の広い知識を有し、多くの転生と内面改善の努力によって愛の能力をさらに発達させたために、霊性において他者を導いて助言できる人が君たちの中にいることは確かだ。でも、それらの人は仰々しい やり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名乗ったりはしないし、 特別な衣装をまとうこともない。
彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいという強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者 たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。
霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるもの だ。だが、自分自身で決断するようにと、それはとても精妙になされる のだ。先ず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴 き、それから進みたい道を選び取るのだ。
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