魂の法則:愛 vs 我欲(2)

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魂の法則:愛 VS 我欲(1)からの続き

*進化に役立ててもらえるように、気位の高い人に簡潔に言えることは ありますか。

悲しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。 感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧 してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、解消できない 不毛な苦悩となるからだ。 考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者 を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分 の気持ちに従うこと。 人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化 してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、 誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。

*人の意のままにならずに、他者を傷つけないようにするにはどうした らいいのですか。

相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人 自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのか を知る必要がある。 我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、 相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、 その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思って いても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

*でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか。

その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば 本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。 そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではな い。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分 の感情や信念を曲げるべきではないのだ。

*たとえば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴ で苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいる のか、どうやって見分けられるのでしょうか。

相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲し いだろうかと分析してごらん。 自分が発信者・執行者となって行おうとしていた行為についての判断 が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利 己心や不公正な部分があったということだ。送り手としても受け手とし ても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。 でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双 方が自分のエゴを改めねばならないのだが、自我によらなければ確固と した態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。 最終的には「自分にして欲しくないことは他者にしてはならない」と 「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や 自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろう。

*よく理解できるように、例をいただけますか。

よろしい、例を挙げよう。教育の一環として子どもを叩く母親を想像 してごらん。子どもに与える肉体的・精神的苦痛を考慮していない母親 によると、それは、子どもを従わせる方法だそうだ。 もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られ ることも問題なく容認できるということで、彼女が子どもに使ったのと 同じ論拠を夫が持ち出して正当化しても、承服できることだろう。だが 誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、 当然だが非常に苦痛なので、夫が殴り続けることには同意しないであろ う。 この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子ど もは同じように痛いだろうと気づくべきだ。そして現実から学ぶ気があ れば、叩くことは苦痛を生み正当化できないので、それ自体が悪いこと だという結論に達するであろう。
この女性には、どんな解決策があるだろうか? 子どもに対する暴力の 行使を放棄するのだ。そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、 力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることもなく、同時に、自分 の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配から逃れることに 力を尽くせるのだ。 攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのであれば、それは相手に 苦しめられているのではなく、他者の意志を力ずくで曲げたいという我 欲を放棄するのが嫌なだけなのだ。

*先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われま したが、誰かを愛すと、その人が幸せでいられるようにあらゆることで 喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか。

喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違い で、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。 愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。 喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言う のは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてし まって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。 しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて 機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。

*手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか。

自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばす だけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。 真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるよう に、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。

*援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さ いますか。

そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラス の二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし 宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、 その間子どもは楽しく遊んでいる。 もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びを止めなくてはならなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあげることにする。 最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存 的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を 求めるようになることに、加担してしまっているのだ。
二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子 が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子どもが学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助し ていることになる。

*それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか。

いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、 相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担し てしまう場合が良くないのだ。

*自尊心についてに戻りますが、自尊の段階を超えた魂は、どんな進歩を遂げたことになるのですか。

魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには 気持ちに従って生きねばならないことを認識している。 自分をありのままに見せることを、以前ほど恐れない。そのため、以 前より打ち解け、明るく、自然で自由で、感情の防壁が少ない。 自分の内にこもらなくなり、感謝をされなくても気にしなくなる。 他人に、より共感できるようになる。 ご機嫌取りに過大な努力を払わない、つまり、人の思い通りにされる ことが少なくなり、簡単に言いなりにならないので、恨みや怒りを覚え ることも減る。 愛しても見返りを期待しなくなる。 心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の 愛を他者に与える。 否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受け容れることが できる。 肯定的なことをもっと楽しめるようになる。

*自尊から次の尊大への移行を決定づけ、両者を別々の段階とするもの は何ですか。

自尊心の強い者は、愛を与え受け取る能力があるのに、傷つくのを恐 れるがためにその両方を抑制し、自分の周りに無感情という鎧を作って しまう。この無感情という鎧が、気位なのだ。 この鎧をほぼ完全に消滅できることが、次の段階への移行となる目印 だ。

*無条件の愛への道のりの最終工程に到着しつつあるようですね。

まだそうではないのだ。 魂が自分の抑圧や恐れから充分に解放され、感謝されないなどの否定 的な態度を受容できるようになったとしても、その工程を完全に克服で きたことにはならない。自尊心を乗り越えた魂はまだ、自尊心が進化し たもっと巧妙な自我の形態である尊大を克服する必要がある。

*尊大というものが何で、どういう特徴があるのか説明して下さい。

尊大とは謙虚さに欠けることで、君たちが誤って「自己愛」と呼ぶも のが過剰にあることだ。 この段階の魂に残された二つの克服すべき主要課題は、謙虚でないこ とと、執着、つまり愛する者の愛を分かち合うのが困難なことだ。 尊大な者は自信に満ち、他者を必要とせず、全てにおいて自己自足的 である。 他者を助ける気はあるが、助けを求めるのは弱さの証拠だと思う欠点 があるので、本当に助けを必要としていても自分では援助を頼むことが 滅多にない。そして、他者を優先してしまう。 自分の必要性や弱さや欠点、気落ちしていることなどを隠しがちで、 「どうしたの? 何かできることはない?」と聞かれることがないように、 誰にも気づかれないようにする。そして気づかれると神経質になり、自 分が自己充足できていないことを認められずに、腹を立てる。つまり、 不信感・怒り・傲慢が表面化するのだ。 尊大な者は自尊心の強い者よりも感化されにくく、忘恩で報われても 傷つくことも少ないのだが、中傷されたり裏切られたと感じると、自分 の計画通りにいかなかった時のように、怒りと傲慢が頭をもたげてくる。 たとえば、理解して助けてあげようとしている者から軽蔑されたりバ カにされたりすると、怒りと高慢が目覚め、「俺が誰なのか分かってる 135 のか」とか「よくそんな真似ができるな」、「そんな口を叩くなんて、 一体何様のつもりだ?」などと返答をする場合がある。 謙虚になれず、感謝されないことや侮辱を受容できない場合には、他 者を種別して偏見を持ったり、接し方を変えたりする。自分のエゴを自 覚し克服できなければ、助けて欲しいと近づいてくる人がいても、不信 感に支配されてしまう。自分の偏見で特定の人が苦手になり、それぞれ の必要性に応じて公正に平等に援助するのではなく、各人への不信感・ 恐れ・不得手の程度で判断することとなる。 尊大な者は独りでも平気だと思っているが、認め難くても実際には皆 と同様に、幸せになるためには、愛し愛されていると感じる必要がある。 そのため、感情面で自信がなくなると、独りで大丈夫だという外づら が崩れてしまう。確信していた愛を失う恐れは、不信感を募らせ、悲し ませ、絶望的で無気力にする。こうなるのは、まだ執着心に苦しんでい るからで、愛する者の愛を共有するのが困難なためだ。 *僕には、ごく普通の反応に思えますよ。愛する者の愛を失うのが怖い のは、皆に共通することではないですか。 無条件の愛の経験に至っていたなら、本物の愛は絶対に失われないと 知っているので執着で苦しむこともないし、何も怖いものがないだろう。

*ではどうやって、尊大の段階を超えるのですか。

くりかえしになるが、愛して理解し、欠点のままに行動するのを避け るのだ。 魂が謙虚さを増し執着をなくすにつれて、傲慢も少なくなるだろう。 この二つの資質は、見返りを期待せずに他者を心から助けるという、隣 人愛の実践を通して発展するのだ。 尊大な者が、失望や屈辱を味わうことを怖れて、自分が与えることの できる援助を惜しめば、欠点を増長させることになり、停滞してしまう だろう。だが、自分の怖れや偏見を克服し、気持ちに従って行動すれば、 進歩できるだろう。

*進化の視点からは何が我欲の起源ですか。つまり、魂の進化のどの時点で、エゴが生まれるのですか。

利己主義は動物的な生存本能の延長であり、魂が自分自身で決断し、 自由意志で経験し始める時点で出現する。 進化が人間の段階に達した魂は、自由意志の力を発揮し始めたばかり だ。知能は基本的に発達しているものの、感情面がほとんど発達してい 136 ないため、本能に影響されて決断することが多く、その中でも生存本能 に支配されている。その状態から、感情の学習を通して、自分の意志で 決めながら独自の道を模索するという、本能から完全に独立した進化を 遂げていくのだ。

*もう少し詳しく答えていただけますか。まだ理解できないのです。

もちろんだ。魂が獲得したばかりの自由意志を行使し始める時は、本 能に基づいて行うが、本能は、動物界での進化段階で「魂の原型」が培 った知識を集めた生物的プログラムの一種であり、人間の独立意志が発 展する元となるものである。 本能は欠陥を補う仕組みであり、まだ自分自身で決定することのでき ない諸問題に関して、自動的に決断を下してくれるプログラムである。 それは自動操縦装置のように、操縦できなくても進路を修正してくれる のであり、まだ機体の舵取りを学んでいる段階でも、衝突せずに運転す ることを可能にしてくれる。 本能の中には、どんなに過酷な状況下であろうと、肉体の死を避ける 手段を探すように転生した魂を駆り立てるプログラム、とも言える生存 本能と、種の存続には欠かせない生殖本能とがある。 しかし魂は、同時に、初めての感情的な欲求を満たさねばという未知 なる衝動も感じるので、満足はできない。だが、感情について無知であ るため、これまで通りに本能を過大に満足させていればいいと思い込み、 他の存在に与える害悪は考えずに知能をそのために使用する。

*お話によると、我欲は、進化の発展上に元々備わっていたように思え ます。

完全性へと向かう過程において、魂がある程度の期間にわたり利己的 な段階を経ることと、それが多くの転生で継続し得るのは避けられない現実だが、それは有益であるとも言えるのだ。なぜなら、自分の個別性 や意志を再認識して、愛がない時の気持ちを味わえるし、愛を感じられ るようになるにつれて、愛がある時の感情をありがたく思えるようにな るからだ。 そのため、初期的虚栄心と名づけられる我欲の最初の顕現形態は、若 い魂に特有なものなのだが、基本的に物質主義で、最も原始的な本能を 充足させることに向けられる。 物質主義・消費主義・快楽主義といった姿勢につきものの貪欲・強 欲・色欲が目覚める。そして集団的には、帝国主義・植民主義、つまり 権力や物質的な富を切望して他者を搾取する態度となって現れる。 人類の大部分はまだ霊的な思春期に浸りきっているので、君たちの惑 星では未だにこの段階が優勢である。 魂が感情についての知識を得るに従って、このような物質的な我欲は 霊的な我欲へと変容していく。それがより発展した虚栄心の段階だ。 その段階でも魂は我欲にしがみついているが、同時に、感情も発達さ せ始めている。与えることにはまだ抵抗があるが、愛が存在するのを認 識できてその恩恵も分かるので、愛を受け取ろうとする。 強欲は執着に変わり、貪欲は独占に変わる。だが、それは一夜のうち に変化するのではなく、段階的にそうなるのであり、中間的な虚栄心と いう過渡期が存在する。 中間期には、我欲のあらゆる顕現形態(貪欲・強欲・執着・独占)が 様々なレベルで混在しており、これが現在の地球の支配的な状況なのだ。 これらの我欲のうちの一つから脱却するのにも、計り知れない歳月が かかることがある。しかし魂が我欲を自覚し、それに流されれば他者を傷つけると認識した時から、自己の行為にもっと責任を持ち、自分がも たらす苦悩に関しても敏感になる。するとある時点で、魂は感情に目覚 め、愛す必要性を感じ、幸福になるためには愛さねばならないと気づく。

*それからどうなるのですか。

愛を追い求め始めるのだ。そして自尊の段階が始まる。 この時期に魂は、愛を受けるだけでなく与えることも模索し始めるが、 多数の障害に遭遇する。感じたり自覚をし始めるが、理解されないこと や感謝されないことを身を持って体験し始める。それは、人類の四分の 三という大多数が、まだ虚栄のどれかの段階に陥ったままだからだ。未 だに自尊の前段階の因果を体験し、何が起こっているのか理解できない のだ。 だから世の中全体を敵に回したように感じ、改善して愛し愛されたい という自分の思いが拒絶される気がする。感情的に失望してそれに負けてしまうと、我欲が頭の中で再び勢いを得て、発見したての感情を傷つ けられまいと、自分の心を覆ってしまう。そして孤立することが苦悩を 回避する手段だと思って、再び不信・内向・孤独に陥る。 苦悩を避けるために諦めるという手段を選ぶ場合もある。利己主義者 からの攻撃をかわそうと、その期待通りに自分を変えようとするのだ。 霊的な病の中では最悪なものが芽を出し始めるのだが、それは、多くの 肉体的な重い病の原因ともなる。つまり、自分の意欲と自由意志を放棄することであり、極端な場合には、魂はありのままに行動することも生 きることもできずに、完全に周囲に隷属し、強制されたことを自分が望 んでいることだと信じ込むに至る。 しかし、これでは苦しみたくないがゆえに苦しむことになり、それは 何の霊的な成長ももたらさない不毛な苦悩である。 人類の四分の一ほどが、この自尊心の段階にいる。虚栄心から自尊心 のへの段階の移行も突然起こるものではなく、その過程は緩やかであり、 かなり長期にわたって両者の欠点が共存して顕れる。

*それで、この話はどう続くのですか。どのようにこの段階を超えるのですか。

愛すこと、それだけだ。愛のみが自尊の殻を破れるのだ。 説明した通り、気位の高い者の方が、見栄っ張りな者よりも理解力が あり、自分を傷つける者の仕打ちを受け止められるのだ。つまり、愛の ない利己的な者は単に進化途上のまだ若い魂に過ぎず、感情の学びと我 欲の放棄には時間かかるので多数の転生が必要かもしれないが次第に学 んでいくだろう、と理解できるのだ。 一つの人生で目立った変化が見られなかったとしても、進化していな いことにはならない。今生での善人は、前世の知恵を鞄に詰めてやって 来た生まれついての善人なのだ。一つの転生でも大きく進歩できるとは 言え、一夜のうちに海賊から聖人に変わるように求めるのは無理だろう。 子どもが一日で話せるようにならなくても、言葉は何年もかけて習得 していくものだと分かっていて絶望しないでいられるのなら、幼い魂が 愛せるようになるのに霊的に何年かかったとしても ―何回も転生するこ とだが― 焦ってはいけないのだ。 それゆえ、感情についてもっと理解できている魂は、たった一度の人 生で自分と同レベルに達するように、自分以下の者に要求してはならな いのだ。自分も多くの転生と努力を要したからだ。だから、その人の能 力と意志力の許容範囲で学べることで良しとすべきだ。かつては自分も それと同じ程度で、傍らでは、もっと進んだ者たちが、利己的な態度を 我慢してくれていたのだと思い出すべきなのだ。

*そして、それを全部乗り超えるとどうなりますか。

最大の難関に立ち向かう。まだ謙虚になることと執着を手放す必要が ある。つまり、愛情を共有する際に寛大になるという、尊大の段階で乗 り越えるべき目標が残っているのだ。 139 尊大な魂は、平均的な魂と比較すると大変進化したもので、君たちの 若い惑星では僅かだ。大半はより進化した他の惑星を故郷とする魂で、 進化にかけてきた時間が長い。地球の平均的な魂よりも、霊的な年齢で は何千年も年上かもしれない。 彼らの惑星はもっと発展しているので、事実上不正も存在しないし感 謝されないということもないので、自己の欠点を呼び覚ます厳しい状況 に遭遇することがない。地球に来るのは、自分の短所を表面化させるに はちょうどいい環境だからだ。地球は不正や忘恩に満ち溢れた惑星なの で、これらの魂は自分の欠点と意志力を試そうとするのだ。こうしてよ り厳しい試練を通じて、より速い進化を成し遂げるのだ。 彼らは能力が高いので、余り進化していない惑星への転生に際しては、 他者を霊的に援助する使命を果たすように要請されることが多い。謙虚 さに欠けて愛情の共有が困難である、という自己の欠点を克服するため には、他者を援助して鍛錬することが役に立つのだ。

*これまでの説明を伺って、もっとずっと沢山の疑問が湧いてしまった ので、それらを明らかにして下さればと思うのですが。特に、情緒と感情、我欲の様々な具現形態(虚栄心、自尊心、尊大)に関するものです。 それらをもう少し知りたいのです。

遠慮なく質問してごらん。

*以前、感情と思考とは起源が異なり、我欲は頭脳から生じると言われ ましたが、考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか。

とんでもない。言いたかったとことは、感じることと考えることとの 区別ができるようになる必要があるということだ。君たちを混同させる ような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。 感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。思考が気持ち と調和していれば、感情を愛の行動へと変容させるための貴重な道具と なる。 君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。感 情に基づかない思考は、我欲を増長させる。愛における進化とは、我欲 ではなく感情の力で、思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。

*お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか。

もちろんだ。とっても好きな人に会ったと想像してごらん。君は男性 で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。 その人に対する愛情から君は喜び、ハグしてどれだけ好きだか表現したい衝動に駆られる。しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にいて、彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、後で批判され中傷されることになるだろうことも知っていたとする。この不都合のせいで、君は気を変えて感情を抑え込むので、愛する人に出会っても人にどう言われるかを恐れて、そっけない素振りで礼儀正しく握手をするだけなのだ。 この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。 つまり、最初の感情は喜びであったのに、頭で自制した後に冷淡に振舞ってしまい、感情を押し殺してしまったのだ。

*でも、その人を好きなのなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてしまうかもしれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざるを得ないと思います。批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待って、気持ちを表せばいいと思います。

確かに、慎重は美徳だ。多くの場合、人の意見は理解も尊重もされな いので、他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。 だが、怖れに慎重という衣を着せないように注意しないといけない。 慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもし れないが、感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。人は怖れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、怖れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑え込んでしまう。他者の反応を恐れる余り、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧が始まるのだ。

*頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか。

一部は我欲自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たちの惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。 長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきたのだ。子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、在るがままの姿を表現しようと、 心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、愛情や喜びや自発性を抑制され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代 わりに執着を体験させられてきたのだ。 何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か? 良い子と いうのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規則や便宜の奴隷であるということだ。 子どもがどうしてそうしなければならないのか分からず、その理由を 尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあろうか? そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはならない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。 親や大人に聞かずにしたことは、全て悪いことになる。笑うことも、 泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、 言う通りにしなさい。お前のためだよ」と言うのだ。 非常に宗教的な社会では、全てが罪悪だ。いかなる喜びの表現や、ハグやキスといった愛情表現も罪となる。それら全てに、罪深く、卑猥で、 暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると罪悪感を覚えなくてはな らない。犠牲者を刑吏に、無実な者を罪人に変えてしまう。 そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、感情を殺すこと だという結論に達してしまう。本来の自分とは似ても似つかない、他者 が求める自己像を世間に示すことを覚える。そして、社会の規制は余り にも厳しく、演技をし続けないといけないので、大人になると、見せか けてきた自分を本物だと思い込んでしまうのだ。 大半の子どもが大人になった時には、在るがままに愛してもらうこと などなく、ほんの少し愛してもらうためにも必ず何かいいことする必要 がある、という結論に無意識に達してしまっている。 つまり、支配的・条件的・強制的・利己的で偽りの愛である執着を信 じ、無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育し てしまったのだ。その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸 福をほんの少しでも体験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないため に、我欲とそのいとうべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。 君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられた者は少な い。「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教 えがないのだろう? 君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもた ちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに 天国へと変わるだろう。 *感情を熟知していても、つまり愛の能力があっても、それを抑制して しまって、感情のない冷淡な人として社会に出る人もいる、と言いたい のですか。そういうことだ。多くの人は、苦しむのが怖く、愛情不足だという弱 点を見抜かれたくないために気難しい。そしてそのため、鎧兜の中世の 騎士のように、衣や鎧で自分を隠す。 こうして、苦しみたくないということで苦悩する。愛し愛され、幸せ になるために不可欠な愛情を避けるがゆえに、苦しむのだ。 孤独を恐れる人が大勢いるのは、なぜだと思うかね? それは、本当のところは自分自身と向き合うのが怖く、「自分は空っぽだ」という大き な真実を発見するのが怖いからだ。 そのため自分から逃避して、多くの頭痛の種をもたらす物質的・精神 的な対象へと逃げ込んだり、頭を過度に刺激する娯楽を求めて、真の回 答には絶対にたどり着けない言い訳とするのだ。そうして、感情の声を 黙らせるほど、頭の声を大きくするのだ。 しかし、良心の囁きを永久に黙らせることは不可能なので、頭脳が油 断をしたり、予定外なことやトラウマとなるような事件が原因で考えら れなくなると、内なる声は再びこう叫び出すのだ。「私は空っぽだ。感じられないから虚しいのだ。見せかけの自分とは違うから虚しいのだ。 外見とうわべだけになってしまった。自分自身であることを放棄し、愛 し愛されたい存在であることを諦めてしまったので、不幸なのだ」と。 現実を自覚するのは痛みを伴い、衝撃的なこともある。この時に多く の者は、事実を覆い隠してしまえば苦しみが軽減し、全てが通常に戻る だろうと間違った思い込みをして、愛情の欲求を放棄してしまったこと をなんとか正当化しようとするのだ。 「人生は僕にこんなに辛く当たった!」「なんて悪い人たちと一緒に なったんだろう!」「両親すら僕を愛してくれなかった!」「なんで僕 がもっといい人にならないといけないんだ?」などと言うことになる。 そして、憤り・恨み・不信・悲しみ・孤独が彼らを内部から蝕む。 子どもができると、子は弱くなすがままになるので、「人生とはどう いうものか教えてやろう」となどと理由をつけながら、自分のフラスト レーションの復讐をするのだ。この時に、再び愛のない方向へとネジを 締め付けてしまう。

*でも、人生で酷く苦しんだ人が、何の努力の甲斐もない、という結論 に達してしまうのは、良く理解できることだと思います。

確かに人生とはとても厳しいものなので、心で感じようと努力する者 は、他者から理解されずに、多くの障害に遭遇し苦しむだろう。しかしそれは状況による外部からの苦痛で、結果的にその人が感じたり愛せる ようになるとするなら、その価値があるものだ。 だが愛情を避けようと苦しむのは、自分自身が生み出す内部の苦悩で、 感情や愛を進歩させることには役立たない。全くその反対なのだ。 人は苦痛に浸りきってしまうと、他者にも痛みを味わわせていいように感じてしまうし、自分が与える損害を考えてみようともしないので、 多くの苦悩と苦痛を生み出してしまうことがある。

*でも、人は苦しみに慣れてしまうと、苦痛が全く普通のことに思えるのです。多くの人が「苦しみを乗り越えられるだろうか、愛すことがで きるだろうか」と自問するではないですか。

しかし私は、「僕が経験した苦しみは全て、もう沢山だ。自分にも他者にも、もう結構。少しは人生が分かったよ。自分がされて苦しんだこ とは、他の人にはしないようにするぞ。父母に求めて貰えなかった愛の 全てを、僕は、自分の子どもや近親者や人生に現れる全ての人に与える ぞ」と言う人はいないものかと思うのだ。 変わろうという意志と感情の力によってのみ、人生というものは逆転 し、憎しみの連鎖を断ち切れるのだ。こうして、固く締められていたネ ジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは一つまた一つと反転して 行き、最後には完全に引き抜かれるのだ。 苦痛を感じ愛のない状態にいる人の全てが、このような決断をしたとしたら、世界は一世代で変わるだろう。両親から愛された子どもは、保身の鎧を被らない世代であり、愛されて育てられたので、愛すことを恐れない世代となる。 前に言った通り、愛せる能力とは、魂が生まれ持った資質である。そのため、誰もにその能力がある。それを発見し、発達させることだけが 必要なのだ。そうだと信じれば、そうなるのだ。そしてすでに言ったよ うに、これは、他者を愛すことだけではないのだ。つまり、自分自身を愛すことから手がけねばならない。

*でも、自分を愛するとはどういうことですか。

もう説明したよ。自分自身を愛するというのは、自分の愛情の欲求と感情とを認め、人生の牽引力となるように、それらを発展させることだ。

*それなら、自分自身を愛すのはいいことなのですね。

もちろんだとも。自己を尊重することは、幸せになるために欠かせないのだ。もう一度くりかえそう。人が放棄しなくてはならないのは我欲であっ て、愛ではない。自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛すため に必要となる力と意志とを引き出すのかね? 愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。そのため、愛さず に生きている多くの人たちが、死んだら苦悩が終わるのではないかとい う幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。そうして自分たち自身で、 君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始するのだ。多くの病気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。 自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ腫などの免疫系の病気や自己免疫疾患に罹りやすい。自己免疫疾患というものは、根深い罪悪感にも関係している。その人たちは非常に気落ちしているため、 他者に捧げるのは難しい。先ず初めに、自分の尊厳を回復しなければな らない。

*では、自分自身を愛すには、どのような手順を踏んだらいいですか。

最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、それらが表出するがままに委ねて、自覚を高めていくのだ。つまり、それらを抑制する のを止め、代わりに発展させることで、人生の原動力へと変えるのだ。 次に、行動する際には、気持ちに基づいて行い、思考によらないこと。 教えられたことでも、それが気持ちに反するならば、正しくはないのだ。 あまたの理由に左右されてしまう思考に、君たちの感情が抹殺されるの を甘んじてはならない。

*多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。

価値があることは請合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛だけが与えてくれる内面の真の幸福を、少しずつ体験し始めるからだ。 また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならな い。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。 最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。ネジが緩み始め るまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、 経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で)満たし、それまで 味わったことがなかった気持ちにしてくれるので、継続する力を与えら れるだろう。

*では、他者を愛すにはどうしたらよいのでしょう。

他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持っ た同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、 幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。 炎天下を水も飲めずに長く歩いて来て、自分がのどが渇いているとし たら、これと同じ状況にいる人は誰でもやはり水を欲している、と思いつかないだろうか? 水と同じことが愛についても言えるのだ。愛を奪われると、我々は全員苦しむ。愛が与えられると皆、元気づけられる。それゆえ、愛情に渇えている人を見かけたら、その人に愛の水を飲ませてあげなさい。我々 が愛に飢えていた時に、その水を飲ませてくれた人たちがいたように。

*でも、他者にいいことをしようと思っても、感謝されなかったり、軽蔑や嘲笑されたとしたらどうしますか。

誰かに害を加えられたら、その人が愛において進化不足なのだと理解して、その状況を自分自身を改善させる機会として利用すべきだ。 我々の中で何か否定的なものが目覚めたとしたら、それは我々自身に まだその要素があるということで、排除しようと努力しなければならな い。 前に言ったが、愛を無条件で与えられるようにならない限り、課題を終了したと見なすべきでない。感謝されないことを容認できない人は、 まだ与えるものの見返りを何か期待していることになるので、ゴールに 行き着いてはいないのだ。

*それなら人は、「なんてこった。自分が変わろうとしても他の人たち が変わらないなら、どんな目にあわされるだろう。そんな甲斐があるだ ろうか」と思うのではないですか。

人に叩かれるのはかわすことが出来るのだから、自分自身に叩かれるよりいいのではないか? 愛がない生き方をする者は、自分自身を叩いているのであり、愛そうとしてくれる人を近寄らせないのだ。

*お話はもっともですが、まだ疑問が湧いてきています。

自由に話してごらん。

*先ほど、感情を押し殺さずに表現することの重要性を強調されました ね。でもその一方で、他者の愛情の欲求や感情を配慮することも大切だ とお話しされています。そこで質問なのですが、憎しみ・憤り・怒り・ 恨みなどの否定的な感情は、それらを表現すると他者を傷つけることに なりませんか。他者を傷つけずに感情を表現するにはどうしたらいいで すか。両方を尊重するのは、難しいのではないですか。

君の焦点の当て方では、確かに矛盾してしまう。 全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を 使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を 明確にする必要があろう。 前に、感情に委ねなければならないと話した時は、愛から生まれる感情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。区別できる ように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。 我欲から生まれるもの、または愛と我欲の葛藤から生じるものは、否 定的な感情で「エゴ的感情」と呼べる別物であり、違う方法で扱う必要 がある(それは後で話そう)。「エゴ的感情」の意のままに行動するの は、他者に多大な弊害を与えるので、確かに避けるべきだ。 どちらの場合にせよ、感情を抑圧しても碌な事がない。自分の内部を傷つけるだけだ。

*「エゴ的感情」についてお話し下さいますか。

「エゴ的感情」は我欲が具現したものなので、虚栄心・自尊心・尊大 について話した時に、その幾つかは扱っただろう。だが、執着心のよう に複雑で理解が混乱するものを特にもっと深く掘り下げて、今からそれ らを見てみよう。
以下が最も重要なものだ。
A) 強欲・貪欲・淫乱・憎悪・攻撃性・羨望
B) 執着・独占・嫉妬・怒り・恨み・無力感・色欲・罪悪感・怖れ・ 悲しみ

*これらは七つの大罪を思い出させますが、関係はありますか。

確かにこれらに翻弄されれば、尊重されるべき「愛の法則」や「自由 意志の法則」に反する数多くの罪を犯すことになるだろうが、これらは 罪ではなく我欲の顕現形態なのだ。

*どうして二つのグループに分けたのですか。

最初のものは、より原始的な我欲の形態だ。 二つ目も我欲が顕現したものだが、感情というものを言わずもがなに 認識しているという要素が付加されている。

*より正確なイメージが持てるよう、「エゴ的感情」の一つ一つが何から成り立っているのか定義して下さいますか。

よろしい。強欲と執着から始めよう。執着は強欲から発展した形態な ので、まとめて分析するとしよう。

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