魂の法則:イエスの地上での使命ーその2ー

イエス

いつも長い文章を引用して申し訳ありません。
しかしながら、本日の内容は、ちょうど現在の世界の状態を述べているようにも思われるのです。
スピリチュアルを語る人は多くいますが、その人の魂のレベルがどのくらいであるのかは、じっとみているとわかってくるものです。
神の名の下に、色々なことを起こしている人もいます。
今こそ、自分の魂としっかり向かい合い、それぞれの魂が神(宇宙源)と繋がっていることを自覚することが大切な時期に来ているようです。

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魂の法則:イエスの地上での使命ーその1ー

*「文書」に関して余り良い心象がないようですが、論拠を裏付けするために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。

全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価されるべきだ。
山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私は引用しているのだ。

イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうすることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことから救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解できなかったので、教会の検閲に引っかからずに済んだのだ。

*例を挙げて下さいますか。

たとえば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録されている。初めのヨハネの三章は、もう見た通り、イエスとニコドモの会話の中でだ。

イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは 言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者 は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及 ばない。
(…)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」 (ヨハネ 3, 3-13)

二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。
そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者たちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」 イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どお り直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たの だ。ところが人びとは彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人 の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」 その とき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟っ た。

*それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに 関しては、どんな姿勢でいるべきですか。

いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないからだ。
だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じような人間によって書かれたものなのだ。
いずれせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみるこ とが、騙されないための一番良い方法だ。メッセージの質を見れば、作者の霊的レベルが分かるであろう。

また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手によることもあるのだ。千余年にもわたって原本が偽造・改変されてきて、 聖なる仲介者だと勝手に名乗り挙げる者の利益となってきたのだ。それ ゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のものは詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析して、 「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知る得ること ができるのだ。

*地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳しい戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、 それをどう思われますか。

魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押しつけて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性 からの恩寵だと見なすこともできない。したがって、これらの宗教の権威者たちを、真の霊道の導き手だとは見なせない。なぜなら、霊性の指 導者は、絶対に力を行使したり操ろうとすることがなく、特定の掟を強要することもないからだ。

*地上の宗教は、神の意志を代弁してはいないので、本物ではないと言われるのですか。

全ての宗教には、高次の存在から閃きを得た真実の一部と、多くの虚偽とがあるのだが、後者は、地上の利益に左右された者たちが付け加え たのだ。

*例を示して下さいますか。

よろしい。たとえば、旧約聖書の中の十戒はかなり的を得た規律であり、霊的に進化した存在の教えに忠実だ。

十戒の一つに「汝殺すなかれ」がある。それなのに同じ旧約聖書の中 には、神と称する者が、仮定上の「約束の地」を征服するために、イス ラエルの民を他民族の攻撃に派遣するくだりがあるのだ。
当然だが、このような戦闘では、人びとはお互いに戦って人を殺す羽目になるのだ。つまり、そのくだりが本当であるなら、神が民に「殺 せ」と命じたのだと推測できるのである。その場合、この(殺せとい う)メッセージは、最初の「殺すなかれ」と矛盾する。

それでは、この明らかな逆説をどう解決すべきだろうか? 神が矛盾したことを言ったのだろうか。でも、けた外れに進化した存在に、それは認めがたいであろう。それなら、二つの指示はそれぞれ異なる動機を持った別々の者に由来するのだ、と認める必要があるのではなかろうか。

では、「殺すな」というメッセージと、「殺せ」というメッセージとでは、どちらが常識的に見て、霊的に進化したものだと言えるだろうか。

*僕にとっては、「殺すな」の方ですが。

この教えが高次の霊性からであることを認めるのであれば、その反対のものは、同じ源から生じてはいないのだ。

*では、どこで生まれたのでしょう。

侵略に興味があった者たちによるのだ。

*でも、それは過去の事例ですから。

現在でも同じことがくりかえされているのだよ。 表向きは熱心な神の信奉徒とされ、いつも「神のご加護がありますよう」という言葉で演説を終わらせているのに、自国民を他国の侵略に派 遣するのをいとわないリーダーが、現在の地球には沢山いやしないだろ うか?何百万もの死者を出し、何百万もの家庭を何世代にもわたって破 壊しているのに、聖書の詩篇や「神を信じる」・「神は我々と共に!」 などの言葉を、自分たちの行為を正当化するために利用してはいないだ ろうか?

はっきり言っておこう。 神や高次の霊性を持つ存在は、紛争の一方の側を味方することはないし、いかなる侵略も征服も支持することはないのだ。もしそうするのであれば、神自身が、宇宙に設けた諸法則の一つ の「愛の法則」を侵すことになるからだ。

前述のような人たちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒が守るべきだとさ れる「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒律を侵しているの だ。それなのに、あたかも神が、神の子を蹂躙することに同意したかの ごとく、その名を利用して、自分たちの非道を正当化しようとしているのだ。これが、神の名をみだりに唱えるということで、一部の者が思っ ているように、俗っぽい話の中で「神」という言葉を使用することでは ない。

*それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか。

神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、他の者を虐げて特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、全ての人に進化の計画を推し進めるように呼びかけるのであり、それに協力し たいかどうかを決めるのは、各魂である。もちろん、神の法則に従うようにと、誰にも強いられることはない。 望みとあれば、各人の意志と能力に応じて、個人や集団での人類の進化計画で、具体的な役割を果たす約束をすることが可能だ。これが、魂の選択なのである。

ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分を成長させるだけでなく、まだこの呼びかけに心を許していない者の手本となるのである。

*そのように、霊的な世界からの呼びかけに心を開く人たちは、神秘主 義者や預言者と関係があるのでしょうか。

霊界との直接的な交信は、ごく一部の人たちだけの特権ではないのだ よ。すでに言ったことだが、全員が個々に、神や高次の霊性や自分のガイドとの直接的な繋がりを持っていて、それぞれが独自の方法で、それを体験していくのだ。

大切なのは、誠実に謙虚にコンタクトを求めるということと、魂を成長させるという目的が、探求の動機づけであることだ。もしそうであれ ば、各人に、それぞれが必要としているものが与えられるであろう。体験の華々しさが重要なのではなく、その経験を、欠点を正当化するためにではなく、愛における進歩のために役立てることが大切なのだ。

不幸なことに、「アセンデッドマスター」やその手の重要な人物だと思われたいという欲望から、自己暗示による経験を本物だと思い込み、 他の人を騙してしまうような人が沢山いる。また、本当の霊的な交信をした後で、その経験を、自己進化や他者の援助に活かす代わりに、偉ぶって、自分は優れていると思い込み、他者に神のごとく扱われることを要求する人もいる。

自分をどう改善するかを追求するよりも、他者の称賛を求めてしまう のは、虚栄心からの欠点だ。残念だが、これは君たちの世界ではごく頻繁に見られる現象だ。

*預言者とは何ですか。

預言者とは、霊界の真実を教え、「愛の法則」に反する行為がもたらす結果を各時代の人びとに忠告するために、高次の霊性から送られて来る者である。一般的に、転生する惑星の平均よりも進歩した魂だが、そうでなければ、委託された使命を遂行することができないからだ。

他者を助けると同時に、自己を進化させることができるのだが、それ は一般的には、生まれ出た社会から拒否や拒絶をされ、虐げられたり罵倒されれたり馬鹿にされたりするからで、そのために、自己の愛の力量が試されるからである。彼らは、通常考えられているように、特別で神聖な特権を持つ存在などではない。

その霊能力は、輪廻のサイクルの中で ―他世界での転生であったかもしれないが― 自分自身の功績によって獲得されたものだ。あらかた、年下の生徒を手助けする年上の生徒といったところだが、それと異なるの は、他の人と同じ条件で転生して来るので、肉体的にも年齢からも、彼らを識別できない点だ。

いつか、君たちの惑星の住人が充分に進化を遂げる日が来たら、その 中から、進化の遅い人類が住む世界で預言者の役目を果たす者が出ることだろう

*でも、偉大な師匠だと思われていた人が、後から、実は詐欺師で、人 びとの純粋さにつけ込んで大金を貯え込んでいた、と発覚することがよ くありませんか。

その通りなのだ。多くの者が猫をかぶっているのだ。

だがその一方で、初めは良く、いい線を行っていたので、必要な霊的援助が与えられた、という者も沢山いる。問題は、その者たちが、人びとに与える効果に目が眩んでしまうことだ。

本当に答えを探し求めている人は、内面を覚醒してくれる人に出会うと、その人にとても感謝して、それを大げさに表現しようとするものだ。 そのため本人も、本当は霊的知識の光を届けているだけの筈なのに、自分自身がまぶしく輝いているのだと勘違いしてしまう。人びとも間違っ て、その人を神のように奉り始める。

我欲とその顕現形態をまだよく知らず、自分でも克服の努力をしないのであれば、我欲は増大し、自分が全ての者に勝ると思い込むに至るだ ろう。そして、他者に奉仕する代わりに、その反対となってしまう。道義上の家来か奴隷のように仕えてくれることを人に要求し、どんな決断や願望であっても決して問い正さずに、盲目的に自分に追従することを求める。

こうして、光は段々と消えて行き、最初の思いは失われ、インスピレ ーションもなくなるのだ。霊的な閃きが消えると、我欲が頭脳を支配し始め、その時から、受け取るメッセージは混乱し、矛盾したものとなる。 そして、本物になり得たであろうことは、守りきれずに失われてしまったものの混沌とした記憶として残り、我欲の高揚を正当化する多くの嘘で固められるのだ。

*真の預言者と詐欺師とを、どのように見分けるのですか。つまり、真 の預言者・ガイド・霊的な使者に必要とされる条件とは何ですか。

肉体を持たない霊的なガイドは、何の分け隔てもせずに、全ての魂を支援する。真の霊性というものには、国境も経済格差も、人種や宗教やその他のいかなる違いも存在しない。それゆえ、富める者と貧しき者、 白人と黒人、信者と非信者とを差別しない。これらの違いは、一時的な条件や状況に過ぎず、転生から転生で変化するものだからだ。

霊的な教えを普及するにふさわしいと自認する者は、それと同じやり方で行動しなければならない。肉体を持つ真の霊的指導者は、「魂の法則」に従い、目立たず謙虚に生きようとし、何の見返りもなく、他者を援助し啓発しようとしている。

それゆえ、霊的な真実らしきものを公開することで、金銭的な、またはその他の代償を貰おうとする者たちは、全て、真の霊的な指導者だと は見なせない。「会員だけ」の真実というものは存在しないからだ。

真のマスターは、自由意志を尊重する。つまり、絶対に自己の見解を押しつけず、自分が手本となって宣教し、提供するものを受け取るか取らないかは、他者の自由に任せるのだ。したがい、権力主義に訴えて正 当化することはなく、絶対に「俺の言う通りにしろ。俺はマスターで、 悟りを得た神の使者だぞ」などと言ったりしない。

心を開いた者を説得するには、メッセージの質が高いだけで充分だ。 それに関心を持たず説得できない人たちがいても、彼らにはそうして独自の道を歩む自由意志があるのだ。好きでもないものを信じたり同意したりを、義務づけられることも強要されることもない。

*偽マスターや見せかけの霊性に引っかからないための助言があります か。

どんなに高次に思える宗教や政治・哲学的思想であろうと、その信仰のために、絶対に君たちの意志を放棄してはならない。信仰のために意志の放棄が求められるのであれば、そうするには値しないものだ、と確信しなさい。

伝達者を偶像化せずに、メッセージを分析なさい。メッセージに納得できなければ、疑問を表明し説明を求め、それでもその教えと同調できなければ、それを拒めば良い。理解できなくても信じることを強要する信仰のドグマによってでは、一切、何も受け容れるべきではない。

自分自身の経験・感情・理解・分析によってではなく、神聖だとされる人がそう言ったから、という不可解な外からの押しつけによって同意してしまうことは、権力主義に従うだけで、進化のためにも幸せになる ためにも役に立たない。魂は自由でいる時だけが幸せなのだ。

したがって、妄信的な信仰も、霊性を管理し操る社会層も必要ない。 答えは自分の内に探しなさい。君たちの内面は、霊的ガイドや高次の霊性と直接繋がっているので、思っているよりもずっと賢いのだ。

*でも多くの宗教では、霊との交信は、悪魔のすることだと思われてい て、それをしようとするのは、有害で邪悪なことだと考えられています。 聖書がこのような交信を禁じているとのことですが、聖書が神の言葉であるのでしたら、神自身がこれを禁止したことになるのでしょうか。こ れについてどう思われますか。

各人が高次の霊性、それを神や霊的ガイドと呼ぶが、と独自の繋がりを持つことを認識してしまえば、教会権威者たちは、主役の地位と権力を失うこととなり、そうなれば、信者を気の赴くままに操ることができなくなってしまう。

彼ら自身が矛盾しているのだ。なぜなら、彼らの聖典を、神から閃きを得た人によって書かれた御言葉なのだと見なすのなら、それは、霊界と霊的な交信を持ったことになるのだ。しかし、信者にはそれと同様な交信は許さず、彼らが崇める本を書いた過去の著者だけの特権としてい るのだ。

イエスや他の進化した預言者は、高次の霊性との接触を求め、そこか らインスピレーションを得て任務を支援してもらった訳だが、それは、 肉体に宿った者が肉体を離脱した魂から助言と支援をしてもらうという、 完全なる霊界との交信なのだ。

霊媒力を非難するのなら、イエス自身をも批判することになってしま う。イエスは、霊界の教えを当時の同胞に伝達するという、大変強力な霊媒として、活動したのだから。

*その通りですね。でも彼らは、「イエスは神の子だったから、閃きを 与えたのは神自身で単なる霊ではなかった」、と言うことでしょう。

全てを盲信させて教えを分析することも認めていないのに、二千年以上も前の預言者にインスピレーションを与えたのが、神か、聖霊か、そ れともサタン自身であったのかが、どうして分かるのだね?

実際、教会権威者たちが御言葉だと崇め奉る旧約聖書を書いた、本物の預言者の一人が今生まれ変わって、前世の業績を解析したり豊かにする新たなお告げを書いたとしても、昔のようにそれを公言すれば、権威者たち自身がその人を嘲り、メッセージを吟味することさえ許さず、その人が狂っていて悪魔の類と交信しているのだと思わせようとするだろ う。

だから、常識的に判断しよう。相手の能力を知る唯一の手がかりは、 メッセージの質なのだ。

現在、メッセージで暴力や戦争や他者を憎むことを奨励している人を、 神の使者だと信じられる者などいるであろうか? 同世代の人をそう認められないのであれば、どうして、いかに古かろうと、過去の著者を神の使者だと認めなければならないのだろうか? 過去の作家が特別な存在であるのは、とても古いためだからだろうか? それなら、神々の代わりに恐竜や鮫や蟻を選ぶとしよう。それらは、古代の作家の誰よりも前に、 この世に出現していたのだから。

イエスのメッセージが人類にこれほど大きな影響を及ぼしたのは、イ エスがそう言ったからではなく、無条件の愛を示すという教え自体が、 偉大であったからだ。しかしこの世の権力者たちは、布教に歯止めをかけることができなかったために、自分たちの特権や搾取が終焉を迎える ことを恐れ、イエスの人物像と教えを手中にし、その内容を著しく侵し てしまったのだ。そして、元のお告げそのものと矛盾し、イエスが一度 も口にしなかった言葉を、特権と権力を維持するために彼が言ったこと にして、教えと反対のことを我々に信じ込ませることにほぼ成功したの だ。

*キリスト教徒にとっては、イエスは神同然か神の子なのですから、イ エスがすることなら何でもいいのではありませんか。一般人が直接霊と交信することを、認めるつもりがないのでしょう。

初期のキリスト教徒の間では、慈善的な霊との交信がごく頻繁に行わ れていた、と知ったら驚くであろう。襲いかかる酷い迫害に耐えることができるように、彼らはこうして霊界から勇気づけられていたのだ。

初期のキリスト教徒は、愛をもって祈れば、高次の聖霊から応援されて近くに来てもらえることを知っていた。新約聖書自体の使徒言行録の中にその例があるが、イエス自身が肉体を離脱した後に霊となって、使 徒たちの前に随意に現れたり消えたりしたことがうかがえる。

それ以後、教会自体がこの種の顕現を敵視した。なぜなら、そこからまた愛の種が生まれ、再び人びとの心の中で発芽し、当時の人類が宗教組織によっておかれていた霊的な闇から解放されてしまうことを怖れた のだ。

イエスは戻って来なかったが、霊界と直接交信ができる非常に高度な魂たちがやって来て、恵まれない者を癒したり面倒を見たり、多くの善をなしたのだ。だが、その多くの者は、魔術使いや異端の罪状で、宗教裁判で火刑とされた。

*でも、悪霊を呼び出すために集まって、他者を支配したり、富や権力を獲得する能力を授けてくれる魔法の力を得ようとした人たちも実在するようですが。

そのような交信は行われていたし、我欲に満ち溢れ富と権力を渇望する魂がこの世に存在する限り、今後も行われることだろう。だが、そういう意図で行動すると、同レベルの低級霊の都合のいい餌食にされて、 あらゆる手段で彼らの支配下に置かれてしまい、隷属させられて、もっと酷いことをさせられてしまう。だから、このような接触は非常に危険 で、全く奨励できないものだ。

しかし、他者に害を与えようとして、霊媒力を使って下級霊と通信する者がいるからといって、霊媒を介した霊界との交信の全てが有害だ、 と結論づけることはできない。それとも、悪意のある目的にインターネ ットを使用する人がいるので、ネット上の全ての通信を政府が禁止する ことが理にかなっているのだろうか? 理論的に考えれば、使用を制限すべきなのは、社会の健全性が狙われる時だけで、全体を禁じてしまう必 要はない。

*でしたら、なぜ世間では、霊との交信がこれほど反対されるのでしょうか。

それは、この世の宗教権威者やその他の権力者たちの多くが、人が自力で神や守護霊と交信することを阻むことによって、支配力を維持しているからだ。

霊界との接触を怖れさせようと、明確に意図して作成された映画は無数にある。それらは、ダイアリー・オブ・ザ・デッド(Diary of the Dead)、ポルターガイスト(Poltergeist)、エクソシスト(Exorcist) などの恐怖映画で、全ての交信が恐ろしいものになる、と思い込ませるのだ。

こうして、誰もが怖れによって自分自身を異端視し、直感や夢などであろうと、霊界からのメッセージかもしれないと思う度にそれを抑圧し たり、誤った解釈をしてしまうのだ。

*教会や司祭が地上での神の仲介者である、という信仰は正しくない、 とも言われましたね。

そうだ。

*何を根拠にそう言われるのですか。

イエスと当時の司祭層との関係を正しく読み取るのなら、イエスには、司祭という身分を創る意図も、カトリック教会が創ったような階層制度を設ける意志も、絶対になかったという結論に至る。カトリックのヒエラルキーは、その時代のユダヤ教会をかなり忠実に模倣したものだ。

イエスは、一人ひとりが神と繋がっていると教え、司祭を介してのみ神と交信できるという誤った考えを覆しに来たのだ。

実際、イエスは、公の説教のかなりの部分で、ユダヤ聖職者たちに応 酬している。イエスのやることの全てが彼らを逆なですることだったので、聖職者たちはイエスを手強い競争相手だと見なしたのだが、それは 誤りではなかった。イエスは、次のメッセージを形を変えて何度となくくりかえしたからだ。

「聞きなさい。彼らは神の仲介者などではない。なぜなら、適切な霊的援助を差し伸べることよりも、君たちを犠牲にして経済力を失わないことの方に一生懸命だ。馬鹿げた法律で君たちを混乱させてしまったが、 そんなものは必要ない。天の国に入るために唯一必要とされることは、 愛すことだ」

このメッセージが聖職者階層の目に留まり、人びとが覚醒してしまえば自分の仕事がなくなってしまうと考えて、イエスを殺してしまったの だ。

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魂の法則:イエスの地上での使命ーその3ー

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