魂の法則:愛 vs 我欲(悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め)

魂の法則

ここのところ、ずっと「魂の法則」についての投稿をサボってましたので、久しぶりに投稿いたします。

私が、「魂の法則」を投稿しようと思いつくタイミングは、何らかの必然を持っているようです。おそらく、今、私の側にいる人・患者さんが今日の投稿内容を必要としているのだと私は感じます。是非、すぐにお読みください。

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悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。

悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと

強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほ

ど明白ではないので、捉えるのが難しい。

実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃

性と悲しみの入り混じったものだ。

悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したも

のと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。

悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。

苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはなら

ないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲し

みによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する

動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲

しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような

状況から生まれる。

自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕

事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、

致命的な行為に及ぶことがある。

*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。

ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。

だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態にな

ってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力

を怠る口実となるのだ。

*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。

悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみの

せいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆

に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変

強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にそ

の状態がうつってしまう。

悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こ

す。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使

命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他

の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみ

に蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。

*悲しみはどう超えたらいいでしょう。

攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗

り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服す

ることにも適用できる。

それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。

自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。

我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一

部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理

解するのだ。そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解

などで、我々自身が招いたものなのだ。

時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利

己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解す

ること。

誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が

足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解す

るのだ。

自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自

分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。

とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投

げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と

生きる希望を失い、落ち込むのだ。

もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。

それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、

この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。

理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵とな

るのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とす

るからだ。

*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。

例を挙げれば、死に対する姿勢だ。

君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは

死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と

向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。

この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭

のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避け

て、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けて

いるのだ。

そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、

悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしよう

もない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦

める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていな

いので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。

死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、

遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を

失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるよう

に、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとす

る。

進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだ

と皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々

しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻

るので、喜んであげるのだ。

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